鴨
鴨と伝えられる地域は、南は高鴨神社が鎮座する鴨神から北は鴨都波神社を含む、いわゆる金剛・葛城山麓一帯の呼号であって「釈日本紀」が引く「山城国風土記」には神倭石余比古の御前に立った加茂建角身命は「大倭の葛城山の峰に宿りまし、彼より漸に遷りて、山代の国の岡田の加茂に至りたまひ、山代河の隋に下りまして葛野河と加茂河との会ふ所に至った」故にその地よ名づけて「加茂とう」と記しています。金剛山、葛城山の東麓は鴨族の一中心地で鴨山口神社、高鴨神社、鴨都波神社など出雲系有力神社を祀った神社が多いところである。
その鴨族といわれた人々が大和において早くから稲作を始めていたところが鴨都波遺跡とされているところではないか、先頃、この遺跡から三角縁神獣鏡が4面出土した鏡は中国製とか日本製とか言われているが、現在調査研究中であって定かではない。
しかし、棺に埋葬された鏡は特異で、他に類を見ない鏡だという。
3世紀中頃の邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使者を遣わしたとき、明帝より、親魏倭王の称号を与えられ、その時に卑弥呼に贈られた100枚の鏡の内の1枚ではないかとも言われています。また被葬者は邪馬台国の女王卑弥呼の孫の壱与の時代で4世紀中頃の成年男子という。この被葬者は古代豪族葛城氏に続く部族ではないかと推論されています。この時代には約14キロメートル北方の三輪方面に前方後円墳など大型の墳墓が造られていたのに、何故かこの度発掘された墳墓の規模は小さくしかも墳墓の割りには副葬品は大型の墳墓と同等であった。いずれ詳細な調査によって明らかになると思われますが、葛城の特異な文化圏が存在して、葛城独自の埋葬方法なのではと言われています。この鴨都波遺跡は弥生時代中期から後期の遺跡として唐古遺跡(田原本町)新沢一町遺跡(橿原市)に匹敵する重要な遺跡であることに間違いはなく、古代史上5世紀以前の歴史については未知の部分が多く、特に葛城氏・鴨氏に続く部分が古代歴史上定かでないことから、この度の発掘による研究の成果が大いに期待されるところである。
ところで、出雲にも加茂と呼ばれる地域があって、先頃、発見された荒神山遺跡や加茂倉遺跡の調査によって、日本書紀や古事記よりも以前に編纂された出雲風土記の神話が実話だったのではないかと言われています。弥生時代に九州北部・出雲・大和に強大な王国があったと思われ、中でも出雲は、北陸に至る日本海側を勢力圏としていた事が、近年の発掘と出雲風土記が伝える記述によって解明されようとしています。出雲国は邪馬台国の卑弥呼に吸収されたのではないだろうか。何故か大和には出雲系の神社が多く見受けられ、御所市内の神社も高鴨神社・一言主神社・などのほかに多くの出雲系神社が鎮座しています。
神々を崇め、開拓精神旺盛だったと思われる鴨氏は、出雲国と深い関わりがあったのか。それとも古事記が伝える神話は出雲国や九州の日向・筑紫・安芸・吉備などの国造り神話を、天武天皇が都合の良いように体系化したものなのか。いずれにしても記紀編纂に際しては、後の天皇と関わりのあった葛城氏系・鴨氏系が重要な役割を担っていたと考えられる。
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