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神武東征
瓊々杵尊(ににぎのみこと)が崩御の後、約5000年経って海童(わだつみ・海神)の娘の玉依姫(たまよりひめ)の子の天武天皇は「東に美しい国があり、そこは青い山脈が四周を巡らし国を治めるには良い所であると聞いたことがある」と子供の手研耳命(たぎしみみのみこと)と同母兄の五瀬命(いつせのみこと)などに相談します。賛同を得て東征が始まります。大和への途中筑紫、安芸、吉備の国々の後、現在の枚方市付近、河内の白肩之津(しらかたのつ)に着き内陸に向かおうとしたところ、長脛彦(ながすねひこ)と戦いになり兄の五瀬命(いつせのみこと)が足に矢をうけて苦戦します。「私は神の子であり、日に向かって賊を討つことは天の道にそむく」ということで軍を引き、船で熊野へ向かいますが、熊野から内陸へ向かうには山中が険しく進むべき道がわからず困っていると、ある時神武天皇は天照大神の夢を見ます・その夢は「私が八咫烏(やたのからす)を遣わすからこれを道案内にするが良い」という。やがて八咫烏(やたのからす・鴨族と思われる)が天空より舞い降りたので烏の向かうがままについて行ったところ皇軍は無事に宇陀に着きました。天皇は数々の賊軍と戦いますが、ある時長脛彦(ながすねひこ)の軍と戦いになり勝利できないでいると、突然天が暗くなり雹が降ってきて、そこに金色の鵄(しび)が飛んできて天皇の弓の弭にとまった。その鵄が稲妻のように光輝いたので長脛彦(ながすねひこ)の軍は目がくらみ、戦うことができませんでした。その後、大和平野の最後の地である高尾張(たかおわり)にも賊がいたので、皇軍は葛のつるで網をつくり捕らえます。この時この地を葛城と名付けたと言われています。(日本書紀)
東方を征討してから6年経ち、国の中央部は平定したので「畝傍山の東南の橿原の地は国の真中にあたりここに都を造ろう」と言われ、天皇は橿原宮に即位します。神武76年3月11日天皇は橿原宮で崩御され、翌年秋9月に畝傍山の東北陵に葬った。(日本書紀)
本居宣長は橿原宮は柏原にありと言っています。その場所は御所市大字柏原の現在の本馬山の南側で、神武天皇杜のあたりではないだろうか。日本書紀によれば神武天皇は本馬山に登り、国見をしたと伝えています。
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